五世

男統継承というのもたしかに原則のひとつだったわけだけど、同時にこれまで破られたことのないもうひとつの原則として、継承は五世孫以内に限るというのがある。

五世孫というのはもちろん継体帝のことだけど、これは別格といってよく、あとは遠くても三世孫以内で継承されている(これは養子猶子をもとの系譜でかぞえて厳密にまもられている)。長い歴史のなかで、王統が入れかわったり、迭立したりということはあったが、この原則に例外はない。世襲宮家の伏見宮閑院宮から踐祚があったときでも、いづれも三世孫で、やっぱり五世孫以内という原則は遵守されている。

そもそも大宝令では皇族を四世孫までとしていて、この令はその後、文武帝によって撤廃されたものの、桓武帝によってもとにもどされている(参考:皇室典範に関する有識者会議 「資料3」別紙)。以来、明治にいたるまでこれを変更するような法令はなく、法制史上もこの原則はまもられてきたと云える。

そこで、男統をつぐ臣籍降下した旧宮家の男子子孫についてかんがえてみると(参考: 阿哈馬江さんの「日本の親王・諸王」)、いづれ伏見宮*1流であり、もとの系譜で三十世ちかく二十世以上はなれていることになる。当然、五世孫以内の原則はみたさない。*2

つまり、ここへ来て、百二余代ずっと破られることのなかった男統と五世孫以内という2つの継承原理のどちらかを捨てざるをえないところに追い込まれてしまった、ということである。もちろん、いまからでも直宮卑属の男子がうまれれば回避できるんだけど。

*1:貞致親王のことはこの際おいておく。

*2:臣籍から復帰して踐祚したことで引き合いにだされる宇多帝だって光孝帝の皇子だし、同列にかんがえることはできない。