第百五十六通常国会開会

今上初めての臨時代行委任ということで、普段は注目されない国会開会の勅語(おことば)があちこちのニュースで報道される。以下、どーでもいーけどちょっと気になったこと2点。

一つは勅語の中の、「この席に親しく臨めないことを、誠に残念に思います」の部分。「親しく臨む」つまり親臨の「親」は仲が良いとかそういう意味ではなく、親裁とかと同じく「天子みづからが事を行う」という意味。戦後、詔勅の言葉遣いはですます調になり、一見普通の人の言葉と同じようになったように見えて、やはりそこには厳然として旧来の身分分別があるということを改めて確認。

もう一つは「国会が<中略>国民の信託にこたえることを切に希望します。」の部分。これは今回に限らず国会開会の勅語ではいつも似たような文言が入っているのだけれど、ここで改めて問題にしたいのは、国権の最高機関である国会に対して、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という機関であり「すべての行為には<中略>内閣が、その責任を負ふ」存在である「天皇」が「希望する」ことが妥当なのかということ。

というのも、当該の文言は丁寧体で表現されているものの日本語としてあきらかに目上から目下への発言であり、つまり憲法上「天皇」と国会のどちらの権威が上なのか(あくまで憲法の規定としての問題だけど)ということにかかわるのではないかと思った次第。「国政は<中略>その権威は国民に由来」するから、その国民の「統合の象徴」たる「天皇」は国会の上に立つという考え方もできるし、「天皇」が行う国事(これも謎だけど)が国政の元に行われ、国政を司る最高機関が国会だから国会の方が上という考え方もできるし。

まあ、そもそも憲法第3、6、7条からして「天皇」と三権の関係に対してある種矛盾した構造をもっているので(「天皇」が国会を招集せず、内閣総理大臣最高裁判所長官を任命を拒否するとどうなる?)、どーでもいーことと云ってしまえばそれまでなんだけど。

ところで、この項で「天皇」と括弧付けしたのは個々の人格的存在とか伝統的権威ではなく、あくまで法律上の機関としての存在であることを意味してのこと。念のため。